補聴グラスで聴覚障害者のコミュニケーションを変える——サイナーズ株式会社が目指す「声を見る」世界

スタートアップ事例

公開日  更新日 

ヒアリング先
サイナーズ株式会社代表取締役 那珂 慎二 氏

1. サイナーズ株式会社が目指すこと

サイナーズ株式会社は、「テクノロジーで聴覚障害者の可能性を広げ、自分らしく生きられる社会を創る」というミッションを掲げ、2025年5月に設立されたスタートアップです。代表の那珂氏は聴覚障害者団体に勤務した経験を持ち、ろう者である妻との生活の中で手話を日常的に使用しています。当事者ならではの視点から、既存のソリューションでは解決できていない課題を深く理解しているのが、同社の大きな強みです。

日本国内では重度難聴者が約34万人、難聴を自覚している人は約1,430万人に上ると言われています。また、WHOの発表では、2050年には世界人口の4人に1人が何らかの聴覚障害を抱えるようになると予測されています。こうした背景のもと、那珂氏が特に着目したのは「補聴器では解決できない課題」です。

補聴器は音を増幅させるデバイスですが、人の声を明瞭に聞き取ることには根本的な限界があります。これは電気式補聴器が登場してから長年にわたって解決されていない課題であり、人工内耳でも同様の困難が残ります。補聴器は「音」を補うことができても、「声の内容(意味)」を届けることは難しいのです。

那珂氏はこの現状に対し、「音は補聴器で、声はARグラスで聴こう」というコンセプトを掲げています。補聴器とARグラスを組み合わせることで、音の感知と声の内容把握という2つの課題をそれぞれの手段で補い合う、新しいコミュニケーション支援の形を提案しています。

同社が重視しているのは「選択肢を与えること」です。補聴器だけで十分という方はそのまま使えばよく、ARグラスも選べるという状況を作ることがゴールです。情報へのアクセスが誰でも、どこでも、必要なときにできる社会の実現を目指しています。

補聴グラスの特徴と提供価値

① シースルー型ARグラスによる「視界を遮らない」情報提供

補聴グラスは、ARグラスで世界トップシェアを誇るXREAL社と連携し、同社のシースルー型グラスを使って開発しています。最大の特長は、字幕や手話通訳映像をグラスのレンズに重ねて表示しながら、相手の表情や視線、前方のホワイトボード・プロジェクター映像を同時に確認できる点です。

従来のスマートフォンによる文字起こしや別画面への字幕表示では、目線を何度も移動させる必要があり、講義や会議の流れを追うことが難しくなります。補聴グラスであれば、視線を落とすことなくリアルタイムで字幕が目に入るため、前方の情報と声の内容を同時に受け取ることができます。

② 字幕と手話通訳映像を選択できる多様な情報提供

聴覚障害の特性は人によって大きく異なります。生まれつき聴こえない「ろう者」の多くは手話を第一言語としており、日本語の文章読解に困難を感じる場合があります。一方、難聴者や中途失聴者は字幕(テキスト)による情報提供が有効なケースが多いです。

補聴グラスでは、字幕表示と手話通訳映像表示をユーザーが自分で選択できる設計となっています。手話通訳映像については、実際の手話通訳者が遠隔でリアルタイムに通訳を行い、その映像をグラス上に投影するという仕組みです。手話方言や通訳者の性別・年齢なども考慮した独自のマッチングアルゴリズムを採用し、利用者に最適な通訳者を選定します。

③ 多言語対応による外国人利用者へのアクセシビリティ向上

リアルタイムの英語字幕翻訳機能を実装しています。これにより、訪日外国人が日本語のみで提供されるイベントや講演会に参加する際にも、自国語の字幕で内容を把握できるようになります。聴覚障害者だけでなく、言語の壁を抱えるすべての人にとっての情報バリアフリーを目指しています。

3. 補聴グラスの主な活用シーン

① 大学・学校の授業・講義

ヒアリングの中で最も反響が大きかった活用シーンが、大学の講義や学校の授業です。これまで聴覚障害のある学生は、ノートテイカーにリアルタイムで板書してもらうか、横のパソコンで文字起こしを確認する方法が主流でした。しかしいずれも目線の移動が多く、先生の動きや表情を見ながら内容を理解することが難しいという課題がありました。

補聴グラスを使えば、前方を見たままリアルタイムで字幕が表示されるため、先生の動きや黒板・スライドの内容と字幕を同時に確認できます。利用者からは「授業内容がスッと入ってくる」「集中しやすくなった」という声が届いています。

② スポーツ観戦・イベント・講演会

スポーツ観戦においては、歓声や応援の雰囲気は多くの聴覚障害者に伝わっている一方、実況・インタビュー・場内アナウンスといった言語情報が届かないという情報格差が生じています。補聴グラスではこれらの音声をリアルタイムで字幕化・手話通訳し、ARグラス上に表示することで、会場の臨場感を損なわずに意味情報を受け取ることができます。

③ 職場での会議・接客

社内会議では、これまで聴覚障害のある社員はリアルタイムの発言への参加が難しく、後から資料を確認する形になるケースが多かったとのことです。補聴グラスを用いることで、会議の発言内容をその場でリアルタイムに確認しながら参加できるようになります。

接客業においても、補聴グラスと連携したアプリの機能を活用することで、顧客との対話をスムーズに行える環境の整備が期待されています。

④ 役所・病院などの公共サービス窓口

役所や病院での窓口対応においても、補聴グラスは有効です。担当者の説明や案内をリアルタイムで字幕表示することで、聴覚障害者がその場で内容を把握しながら手続きや診察を進めることができます。また、公共施設での導入や貸し出しにより、個人が機器を所有していない場合でも利用できる環境を整備していく方針です。

まとめ

サイナーズ株式会社の補聴グラスは、補聴器が届けられない「声の内容」を視覚で伝えるという明確なコンセプトのもと開発されています。シースルー型ARグラスによる視界を遮らない字幕・手話通訳映像の表示、多言語対応、そして利用者が字幕と手話を選べる柔軟な設計が主な特長です。大学・職場・イベント・公共施設など様々な場面での活用が期待されており、聴覚障害者だけでなく外国人や高齢者も含めた「すべての人のためのコミュニケーション基盤」として、今後の社会実装が注目されます。

サイナーズ株式会社:https://signers.jp/

コメント

  • 須藤 慎

    記事作成者

    株式会社キャンパスクリエイト・専務取締役・プロデューサー

    本Webサイトの運営担当者です。2005年から、産学官連携や産業振興の業務に携わっています。

    コメント

    今回の記事で最も心を動かされたのは、このプロダクトが「聴覚障がい者というマイノリティ起点」で一貫して設計されている点です。当事者が日常で直面する困りごとから出発し、「情報へのアクセス」をどうすれば自然に、負担なく届けられるかを突き詰めている。その姿勢が、UI/UXや機能の選び方、運用設計の隅々にまで表れていると感じました。
    補聴器が「音」を補う道具だとすれば、補聴グラスは「声の内容(意味)」を届ける道具です。シースルー型スマートグラスの強みを最大限に活かし、視線を落とさず相手の表情や前方の板書・スライドを見ながら、字幕や手話通訳映像を同時に受け取れる。この「目線を奪わない」設計は、大学の授業や会社のミーティングといった、まさに日常の困る場面で決定的な価値になります。スマホの文字起こしでは追いつかなかった瞬間が、生活の中には無数にあるからです。
    さらに素晴らしいのは、字幕と手話通訳映像をユーザーが選べる点です。聴覚障がいと一口に言っても背景や得意な情報形式は人それぞれで、画一的な正解はありません。その多様性を前提に、最適な情報保障を自分で選べるようにしていることに、強い思想と丁寧な作り込みを感じます。
    そしてこの仕組みは、利用者の支援にとどまらず、手話通訳者の方々の社会的な活躍の場を広げることにもつながります。コミュニケーションの制約を「その人の努力」で埋めるのではなく、環境側が支える。そんな未来を現実に近づける、コンセプトも実装も力強い取り組みだと思いました。

    このコメントと投稿者はデジタル証明書(VC)によって真正性が保証されています。

    このコメントと投稿者情報は、「改竄されていないか」や「正当な投稿者か」などを暗号学的に検証できる〈Verifiable Credential(VC)〉によって保証されています。
    それらがシステム上で検証された後に記事にコメントとして表示されています。

    VCとは

    VC(Verifiable Credential)は、デジタル空間で「改ざんが検知可能」かつ「即座に検証可能」な証明書です。
    紙の証明書やPDFと異なり、暗号技術により真正性が数学的に保証されており、W3Cにより制定された国際標準規格です。

    本WebサイトのVC運用ポリシー