当事者・研究者・実務者の「総合知」でインクルーシブなインフラを——九州大学 らくちんラボの挑戦
公開日
- ヒアリング先
- 九州大学芸術工学研究院 准教授 羽野 暁 氏
九州大学 らくちんラボは、「すべての人が区別なく生活できる共生社会」の実現を目指し、インクルーシブなインフラ空間の研究・実装に取り組む研究組織です。土木・建築・心理学・医学・障害学・色覚・音響など多領域の専門家と、当事者、そして実務のデザイナーやエンジニアが連携する「総合知」のアプローチを核に、九州大学伊都キャンパスを実証実験の場として、バリアフリー基準を超えた新たなインフラソリューションを次々と社会実装しています。
1. 九州大学 らくちんラボとは——その設立と目指す姿
九州大学 らくちんラボは、2018年に始動した研究会を前身とし、2022年4月に現在の名称で新たな活動をスタートした研究組織です。「らくちんラボ」という名称には、誰もがらくに移動でき、らくに情報を入手でき、気楽な時間を過ごせて、楽しく社会参加できる——そういった環境を、多領域のメンバーが集い、らくちんに実現したい、という想いが込められています。
インフラや空間の専門領域(土木・建築)を中心に、心理学・医学・障害学・色覚・音響など、非常に幅広い専門分野の研究者がチームを組んでいます。「空間」を対象とし、キャンパスや公共インフラをインクルーシブにしていくことを主眼に置いています。
活動の場は、九州大学が糸島に建設した伊都キャンパスです。100年ぶりの移転によって生まれたこの広大なキャンパスを「実証実験キャンパス」として位置づけ、既存の基準を超えた新たなインクルーシブ技術をまず学内で実装・検証し、その成果を社会へと展開するという一連のサイクルを実践しています。
また、2024年には内閣府の「総合知活用事例」として採択され、ポータルサイトに「誰一人取り残さない公共空間のインクルージョン:当事者・実務者・研究者の総合知でウェルビーイングを実現」と題した取り組みが掲載されています。
2. らくちんラボの柱「総合知」とは
らくちんラボの活動の根幹にあるのが「総合知」という概念です。内閣府が近年推進するこの考え方は、異なる専門分野の知見を統合し、複合的な社会課題に対応することを指します。らくちんラボではこれをインクルーシブインフラの文脈で実践しており、その構成は大きく3つの主体から成り立っています。
- 当事者:障害のある方や多様なニーズを持つ当事者本人がプロセスに参加し、課題の定義から解決策の検討まで共創します。
- 多領域の研究者・専門家:土木・建築に留まらず、心理学・医学・障害学・色覚・音響など、課題に応じた分野の専門家がチームを編成して知見を提供します。
- 実務者(デザイナー・エンジニア):研究で得た知見を実際のモノやカタチに落とし込む実務の担い手が加わることで、社会実装を実現します。
この3者が集い、インクルーシブなインフラを共に作り上げていくプロセス全体が「総合知」だと、らくちんラボでは位置づけています。当事者を「ユーザーヒアリングの対象」として一方的に扱うのではなく、共創の主体として設計の上流から迎え入れることが、既存のバリアフリー基準では対応できないニーズを解決する鍵になると考えています。
また、総合知のプロセスには、物理的な課題解決にとどまらない副次的な効果もあります。異なるニーズを持つ当事者同士が同じテーブルで議論を重ねることで、互いへの理解が深まり、心理的な対立や分断も和らいでいく——「物理的なコンフリクトを解決するプロセスが、心理的なコンフリクトをも緩和する」という知見が、実際のプロジェクトを通じて見えてきています。
3. 主な取り組み事例
らくちんラボはキャンパス内外を問わず、多様な実装事例を積み重ねています。以下に代表的な取り組みを紹介します。
(1)歩車道境界ブロックの開発——相反するニーズを一つの形で解決
歩道と車道の間に設置される「歩車道境界ブロック」は、長年にわたるバリアフリー上の難問を抱えていました。車椅子ユーザーにとっては、ブロックの段差が小さな前輪キャスターに引っかかり転倒リスクになるため「段差をゼロに」という強い要望がある一方で、視覚障害のある方にとっては段差がなければ歩道と車道の境界を認識できず、交通事故のリスクが高まるという、まさに相反するニーズが存在していました。
福岡市との共同開発により、らくちんラボは2年間のプロジェクトで5つの試作を重ね、この課題を解決する新たなブロック形状を編み出しました。歩道側は水平に保ちつつ車道側に向かってなだらかに傾斜し、その折れ目に警告ブロックと同断面の突起を一本配置した構造です。車椅子ユーザーはスムーズに乗り越えられ、視覚障害のある方は足裏でこの突起を感知することで境界を確認できます。
このブロックは現在、福岡市の標準型として採用され、1年足らずで市内に200か所以上が設置されています。さらに福岡市が県へ申し入れを行い、県道にも同型が採用されるなど、管轄を超えた広域展開が進んでいます。2026年2月号の科学誌「Newton」にも取り上げられ、市民の認識の醸成が期待されます。
(2)障害者用駐車スペースの通り抜け設計——コストを上げずに使いやすさを向上
下半身が不自由でも自らハンドル操作で運転する脊髄損傷の方など、両腕の操作で完結する車両を利用するドライバーにとって、首の回転が難しいためバック駐車が困難だという課題があります。切り返しの回数が多く、所要時間も長くなるため、精神的・身体的な負担が大きい状態でした。
らくちんラボは、もともと従来型の駐車場として緑地で計画されていた後方のスペースをアスファルト舗装に変更し、車両が通り抜けできる構造にするアイデアを提案・実装しました。コストはほとんど変わらないにもかかわらず、バックが不要なため実証実験では切り返し回数・ハンドル回転数・駐車所要時間がいずれもおよそ半減するという効果が確認されています。この取り組みはその後、別府港のフェリーターミナルにも社会実装されました。
(3)木製歩道の開発——視覚障害者の安全と環境への配慮を両立
視覚障害のある方が白杖で歩道を確認しながら歩く際、アスファルト舗装では歩道と車道の音の差がほとんどなく、誤って車道に出てしまうリスクがあります。らくちんラボが開発した木製歩道は、デッキ構造による独特の音響特性を利用し、白杖の叩く音が舗装材によって明確に変わるため、視覚障害のある方が歩道と車道の境界を音で認識できます。42名を対象とした実証実験では、木製歩道から出発した参加者は全員が誤って車道に進入することなく正しく歩行できたと報告されています。
さらに、木材は熱を蓄積しにくいため、夏場のヒートアイランド抑制にも貢献します。ベビーカーや小動物を含む多くの人や生き物に恩恵をもたらすこの設計は、「特定のマイノリティへの配慮が、より広い人々への価値をもたらす」というインクルーシブデザインの思想を体現しています。現在、大分市の公園内の歩道への社会実装が実現しており、道路空間の歩道への展開を目指しています。
(4)カラーバリアフリーマップの開発——色覚の多様性を起点にしたデザイン
2色覚の方(いわゆる色覚異常)は、世の中の色を黄から青のスペクトルで認識しており、赤と緑などの識別しにくい混同色があります。らくちんラボでは色覚研究者と連携し、1,500色のカードを使って同じ色に見える混同色を集約・分類したツールを開発。このツールを活用してキャンパスマップの配色デザインに取り組みました。
従来の「カラーバリアフリー」は多数派の色覚を前提とした配色にマイノリティへの配慮を後付けするアプローチが一般的ですが、らくちんラボでは逆の発想で、色覚多様性のある方が見やすい配色を出発点として設計し、そこから多数派の色覚に向けた変換を行う手法を取りました。第2弾では色覚多様性のある当事者がデザイン作業を主導し、当事者の主体性とエンパワーメントを体現しています。また、一つの正解色に統一しないよう複数パターンを作成しており、多様性の受容そのものをメッセージとして発信しています。
(5)ソロ空間(防音パーティション)の開発——聴覚過敏のある方が落ち着ける場所を
発達障害や聴覚過敏のある方が「少し静かな場所で過ごしたい」というニーズに応えるため、らくちんラボは音響の専門家と連携し、移動可能な防音パーティション「ソロ空間」を開発・実装しています。無数の穴を設けた強化段ボールとグラスウールを組み合わせた二重壁構造で、高い防音効果を発揮します。音楽室の吸音壁と同じ原理を応用したこの設計は、外部のノイズを大幅に低減し、非常に静かな空間を実現することが確認されています。
2024年には糸島市内の福祉施設でも社会実装が実現し、使いやすさや作業効率への効果の検証も進めています。西日本新聞をはじめ複数のメディアにも取り上げられました。
(6)視覚障害者向け階段の視認性改善——照明1本分のコストで夜間も安全に
夜盲症の方が分かりやすいよう、夜道の識別性を確保しました。照明が現行ガイドラインの明るさの基準を満たしていても、夜盲症の方が段差を識別するには不十分であることが判明。ただし必要な明るさを照明本数で補おうとすると10倍以上のコストが必要で、周辺への光害問題もあることから、現実的な解決策が求められていました。
当事者との対話を重ねた結果、「階段の形状が視覚的に浮かび上がれば認識できる」というニーズが明確になり、段鼻(踏み面の先端)・側面・蹴込みを含む断面をL字状に蛍光塗料で塗装するという解決策にたどり着きました。照明1本分と同等のコストで全ての段を処理でき、当事者から「非常に安全で使いやすくなった」という評価を得ています。また、災害時に照明が落ちた場合でも視認性が確保されるという副次効果もあり、多くの人の安全に資するソリューションとなっています。
(7)障害者アートのキャンパス展示——気づきの空間づくり
らくちんラボでは、キャンパス内に障害のあるアーティストの作品を日常的に展示する取り組みも推進しています。「障害があるからこそ描けるアートを日常的に目にしてもらう」ことで、多様性への気づきを育む空間を構築することが目的です。地元企業等のスポンサーシップを活用してキャンパス各所への設置を進めており、福岡・天神の工事仮囲いを活用した街なかへの展開も実現しています(読売新聞に掲載)。
4. インクルーシブインフラが目指す社会——インクルージョンの広がり
らくちんラボが目指すのは、単に障害のある方が使いやすい空間をつくることではありません。「バリアフリー」が建築・土木の世界から生まれた「障壁の除去」という概念であるのに対し、「インクルージョン」は福祉・社会学の文脈から生まれた「排除されてきた人を包摂する」という概念です。らくちんラボは、この2つの視点を空間づくりにおいて融合させ、障害の有無にかかわらず多くの人が恩恵を受けるインフラ——すなわち広義のインクルーシブインフラ——を社会に広めようとしています。
さらに、インクルーシブな空間を当事者と一緒に作るプロセス自体が、当事者の自己肯定感や自己効力感を高め、社会への帰属意識(ビロンギング)を育む場にもなり得ることが、実践を通じて示されています。インフラをフィールドにしたエンパワーメントのしくみとしての可能性も、らくちんラボが探求し続けるテーマです。
企業や自治体でインクルーシブなインフラや空間の実証・開発に取り組みたい場合、九州大学の伊都キャンパスをフィールドとして活用したり、当事者モニターの協力を得るといった連携の可能性についても、相談の窓口は開かれています。
まとめ
九州大学 らくちんラボは、「総合知」という概念を旗印に、当事者・研究者・実務者が三位一体となってインクルーシブインフラを実現する、国内でも類を見ない実践研究組織です。歩車道境界ブロック・木製歩道・カラーバリアフリーマップ・ソロ空間・階段視認性改善・障害者アート展示など、多岐にわたる実装事例が、キャンパスから社会へと着実に広がっています。
特定のマイノリティの困りごとを解決しようとするプロセスが、結果として多くの人に恩恵をもたらす——この「インクルーシブインフラの思想」は、少子高齢化・多様性共生・防災・環境問題が交差する現代社会において、ますます重要性を増しています。らくちんラボの挑戦は、インフラ整備のあり方そのものを問い直す、先駆的な試みだと言えるでしょう。
九州大学 らくちんラボ(公式サイト):https://barrierfreelab.amebaownd.com/
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本Webサイトの運営担当者です。2005年から、産学官連携や産業振興の業務に携わっています。
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ヒアリングを通じて強く感じたのは、いま社会にこそ「総合知」が必要だということです。多様なマイノリティが存在するなかで、誰か一人の最適解が別の誰かの不利益になり得る。その現実に正面から向き合い、複数の相反するニーズを同時に満たすために、当事者・研究者・実務者が同じテーブルで知見を重ね合わせていく。らくちんラボの取り組みには、インクルーシブデザインの奥深さと、まだ開拓され切っていない可能性が詰まっていました。インクルーシブの発展は多くの人にとって使いやすいインフラやプロダクトへとつながり、社会全体の価値を押し上げていく。本記事を通してその未来を具体例とともに実感してくれたら嬉しいです。
同時に印象的だったのは、必ずしも多額の費用を投じなくても、デザイン上の工夫で付加価値を生み出せるというビジネスメリットです。相反する要望を統合し、現場に実装して検証するプロセスは、企業にとっても再現性の高い学びになるはずです。さらに「大学を実証フィールドにする」という先鋭的な姿勢は、研究を社会実装へと加速させる強力な推進力だと感じました。共感し、「自分たちの現場でも取り組んでみたい」と思われた方は、ぜひらくちんラボに相談してみてください。このコメントと投稿者はデジタル証明書(VC)によって真正性が保証されています。
このコメントと投稿者情報は、「改竄されていないか」や「正当な投稿者か」などを暗号学的に検証できる〈Verifiable Credential(VC)〉によって保証されています。
それらがシステム上で検証された後に記事にコメントとして表示されています。VCとは
VC(Verifiable Credential)は、デジタル空間で「改ざんが検知可能」かつ「即座に検証可能」な証明書です。
紙の証明書やPDFと異なり、暗号技術により真正性が数学的に保証されており、W3Cにより制定された国際標準規格です。













須藤 慎
記事作成者
株式会社キャンパスクリエイト・専務取締役・プロデューサー