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日本のライフサイエンススタートアップのスケールの壁 〜産学連携マネジメントの現場から見える機会と打ち手〜

はじめに

 

創薬、再生医療、医療機器、体外診断、デジタルヘルス、バイオものづくり──。これら「ライフサイエンス」領域は、日本の大学発スタートアップにとって、最も研究シーズの厚い分野の一つです。経済産業省「令和6年度大学発ベンチャー実態等調査」によれば、2024年10月時点の大学発ベンチャー5,074社のうち、バイオ・ヘルスケア・医療機器領域は1,434社を数え、IT領域(1,592社)に肉薄する大きな存在感を示しています。文部科学省の産学連携実施状況調査でも、特許権実施料収入の中核を占めるのは医薬・バイオ系であり、マテリアル系と並ぶ大学知財の主軸として、長年にわたり日本の産学連携を牽引してきた領域です。

それだけ強い研究基盤と社会的ニーズを持っているにも関わらず、ライフサイエンス領域の大学発スタートアップは、ある段階で必ずと言ってよいほど共通の壁に直面します。ラボの優れた研究成果を、薬事承認・保険適用・市販流通を経て、患者さまへ届ける事業へとスケールする壁です。

本稿では、私たちキャンパスクリエイトが広域TLO(Technology Licensing Office)として、創薬・医療機器・再生医療・診断薬といったライフサイエンス領域の研究シーズの社会実装に伴走してきた経験から、そのスケールの壁を構造的に整理し、同時に、現場で見えてきたポジティブな突破口を提示します。結論を先に述べれば、日本のライフサイエンススタートアップは、確かに極めて固有のハードルを抱える一方で、世界水準の臨床基盤・規制基盤・大学研究基盤・大手製薬産業基盤の四つを同時に持つ国は世界的にも少数という、極めて恵まれた前提のもと、産学連携マネジメントと外部パートナーの活用次第で十分に勝ち筋を描ける領域である、と私たちは考えています。

 

1. 日本のライフサイエンス研究と医薬・医療産業の強さ

まず、議論の前提となる日本のライフサイエンス領域のポジションを、客観的に押さえておきます。

日本は、OECD加盟国の中でも医薬品の自給率と研究開発力が高い国の一つです。武田薬品、アステラス、第一三共、エーザイ、中外製薬、大塚ホールディングス、小野薬品、田辺三菱、住友ファーマといったグローバル創薬企業が国内に存在し、革新的新薬の創出国として、米国・スイス・英国・ドイツに次ぐポジションを長年維持してきました。医療機器領域でも、テルモ、オリンパス、ニプロ、シスメックス、富士フイルムといった世界市場で戦える企業が多数存在し、内視鏡、画像診断、検査機器、治療デバイス等の分野で世界シェアの上位を占めるカテゴリーが多数あります。

大学側の研究力も世界トップクラスです。京都大学、東京大学、大阪大学、東北大学、九州大学、慶應義塾大学をはじめ、地方国立大学・私立大学にも、ライフサイエンス領域の優れた研究室が点在しています。iPS細胞、抗体医薬、核酸医薬、ペプチド医薬、再生医療、AI創薬、マイクロバイオーム、オルガノイド、遺伝子治療、エクソソーム──いずれの分野でも、日本発の世界水準の研究が継続的に生み出されています。臨床研究基盤も、国立大学病院、国立がん研究センター、国立循環器病研究センター、国立国際医療研究センター等のナショナルセンター群を中心に、世界的にも高水準です。

加えて、ライフサイエンス領域には、国家規模の研究開発支援が制度として整備されています。日本医療研究開発機構(AMED)は、創薬・医療機器・再生医療・遺伝子治療等の分野について、基礎研究から非臨床、臨床、市販後までの各ステージに対応するファンディングを継続的に提供しています。AMEDの予算規模は単年度で1,500億円規模に達し、その多くが大学・研究機関と連携するスタートアップにとって重要な資金源となっています。

つまり、ライフサイエンス領域の大学発スタートアップは、研究シーズの源流となる大学・ナショナルセンターの層の厚さと、最終的に研究成果を社会実装する大手製薬・医療機器産業の層の厚さ、そして国家としてのファンディング基盤という、三つの巨大な土台の上に立っています。米国に次ぐ厚みを持つこの環境は、世界的に見ても稀少な強みです。

 

2. ライフサイエンススタートアップ特有の事業構造

「壁」を分解する前に、ライフサイエンス領域の事業がどのような構造を持つかを整理します。

ライフサイエンス事業は、規制と科学とビジネスが極めて密接に絡み合う領域です。創薬を例にとれば、研究開発の流れは「ターゲット同定 → リード化合物探索 → 最適化 → 非臨床試験 → 臨床第I相 → 第II相 → 第III相 → 承認申請 → 上市 → 市販後調査」という、長く厳格なプロセスをたどります。医療機器であれば、設計・試作から始まり、生物学的評価、動物試験、治験(クラス分類による)、PMDA承認、保険適用、市販流通という流れになります。再生医療等製品、体外診断薬、医療AIソフトウェア(SaMD)も、それぞれ独自の規制スキームのもとで開発が進みます。

このプロセスの最大の特徴は、開発期間と開発コストの大きさです。新薬開発は基礎研究から上市まで一般に10〜15年、累計開発コストは数百億円から1,000億円規模に及ぶといわれます。医療機器でも、クラスIII以上の治療機器は5〜10年、数十億円規模の投資が必要です。それでも、上市に至った場合の市場規模・収益規模は他の領域と比較して極めて大きく、患者さまへ届くインパクトと投資回収の規模の双方で、他領域では実現しにくい価値を生み出せる事業領域です。

事業構造としては、初期は重い投資と長い時間が必要な代わりに、いったん承認・上市まで到達すれば、長期にわたり強い競争優位を発揮できる、という性格を持ちます。これは、ソフトウェア型スタートアップとも、マテリアル系スタートアップとも異なる、固有のリスク・リターン構造です。

この「時間軸の長さ」は、事業戦略・資金戦略・Exit戦略の全てに決定的な影響を与えます。新薬開発を例にとれば、スタートアップが創業から上市まで単独で走り切るモデルは、現実にはほぼ成立しません。バイオベンチャーの典型的な成長モデルは、フェーズⅠまたはⅡまで自社で開発を進めた上で、大手製薬企業へライセンス・アウトする、あるいはM&Aによる事業譲渡を行う形でExitする、というシナリオです。

この構造は、別稿「技術移転と大学発スタートアップの両輪へ ~「令和6年度大学等における産学連携等実施状況について」をもとに占う〜」でも整理した通り、スタートアップ単独で数百億円〜1,000億円超の事業化市場を自前で作り切ることが、ライフサイエンス領域では構造的に困難であることに由来します。大学発ライフサイエンススタートアップが目指すべき姿は、IPO一択ではなく、ライセンス・アウト、M&A、IPOの複数Exitシナリオを並列で設計し、開発ステージごとに最適経路を選び分けるポートフォリオ型の出口戦略です。これを前提に、創業初期から大手製薬企業との関係構築と戦略的な知財ポートフォリオ設計を進めることが、ライフサイエンススタートアップのスケール成功の中核条件となります。

 

3. スケール段階で立ち上がる「五つの壁」

それでは、ライフサイエンススタートアップが直面する典型的な壁を、五つに整理します。いずれも、私たちが現場で繰り返し相談を受けてきた論点です。

第一の壁:開発期間と資金調達のミスマッチ

新薬・医療機器の開発期間は10〜15年に及びますが、国内VCファンドの標準的な償還期間は7〜10年です。シリーズB・Cの段階で必要となる数十億〜数百億円規模の調達を、国内VCのみで完結させることは構造的に難しく、ファンドのライフサイクルと開発のライフサイクルのミスマッチが、大型化への壁の一つとなります。

第二の壁:薬事規制対応の専門性

医薬品医療機器等法(薬機法)に基づく治験届、製造販売承認申請、GMP(医薬品の製造管理及び品質管理基準)対応、GLP(非臨床試験実施基準)対応、GCP(臨床試験実施基準)対応、QMS(医療機器品質マネジメントシステム)対応、市販後安全対策──これらの規制対応は、専門人材なしには進められません。PMDA(独立行政法人医薬品医療機器総合機構)対応、厚生労働省対応、各種照会対応など、規制当局とのコミュニケーションには独自の作法と経験値が要求されます。創業初期のスタートアップが、こうした薬事人材を社内に揃えるのは、人材市場の希少性とコストの両面で容易ではありません。

第三の壁:製造・品質保証(CMC)の壁

医薬品・医療機器の製造には、GMP準拠の製造施設、品質管理組織、変更管理体制、トレーサビリティ、原料・部材の管理、安定性試験といった多層的な品質保証が要求されます。特に再生医療等製品やバイオ医薬品では、製造プロセス自体が規制の対象となり、初期治験段階から商用製造を見据えたCMC(Chemistry, Manufacturing and Controls)戦略を組み立てる必要があります。これも、スタートアップ単独で全てを賄うのは現実的ではありません。

第四の壁:臨床試験の設計と実行

治験は、医薬品・医療機器・再生医療等製品のいずれにおいても、開発の最大の山場です。プロトコル設計、治験実施医療機関の選定、治験責任医師との連携、被験者リクルート、CRO(Contract Research Organization)との契約、データマネジメント、統計解析、安全性報告──多数のステークホルダーが関わる複雑なオペレーションを、専門ノウハウなしに組み立てるのは困難です。臨床試験の質は、後の承認可否を直接左右します。

第五の壁:保険適用と市場アクセス

承認取得は、ゴールではありません。日本市場の場合、薬価収載・診療報酬点数化のプロセスを経て初めて、医療機関で実際に使われるルートに乗ります。海外市場では、各国の保険償還制度(HTA:Health Technology Assessment)への対応、現地代理店契約、医師教育(メディカルアフェアーズ)といった市場アクセス戦略が必要になります。スタートアップが単独で全ての国・地域の市場アクセスを設計するのは現実的ではなく、グローバル展開戦略の早期設計が求められます。

これら五つの壁は、いずれも「研究シーズを持っているだけ」では超えられません。事業化のラストワンマイルを支えるエコシステムとの接続が、決定的に重要になります。

 

4. それでも見える「日本特有の追い風」

ここまで壁を列挙してきましたが、同時に、日本のライフサイエンススタートアップには他国にはない構造的な追い風が存在することを、もっと強調すべきだと考えています。

第一の追い風は、世界水準の大手製薬・医療機器企業の集積です。日本国内には、グローバルに事業展開する製薬企業・医療機器企業が多数存在し、ここ数年、いずれの企業もオープンイノベーション戦略を強化しています。CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)の組成、アクセラレータープログラムの開催、研究提携枠組みの整備、ライセンス・アウトとライセンス・インの両面での外部連携拡大──こうした動きが顕著になっており、スタートアップ側にとっては、早期段階から大手とのパートナーシップを設計しやすい環境が、確実に整いつつあります。

第二の追い風は、AMEDをはじめとする国家ファンディングの厚さです。AMEDは、創薬ブースター、創薬支援推進事業、橋渡し研究プログラム、再生医療実現拠点ネットワークプログラム、医療機器開発推進研究事業など、開発ステージ別・分野別に多様な支援メニューを整備しています。加えて、JST、NEDO、内閣府SIP、経済産業省の医療機器関連事業、文部科学省の橋渡し研究戦略的推進プログラム等、複数の制度が重層的に整備されており、研究開発から非臨床、臨床、市販化準備までを公的資金で繋いでいける制度環境は、世界的に見ても充実した部類です。

第三の追い風は、世界水準の臨床研究基盤です。日本の医療制度は、国民皆保険制度のもとで、大規模かつ高品質な医療データが蓄積される構造を持っています。レセプトデータ、DPCデータ、電子カルテデータ、ナショナルクリニカルデータベース、患者レジストリ、PMDAのMID-NETといったリアルワールドデータ基盤は、創薬・医療機器・診断・デジタルヘルスのいずれの領域でも、研究開発の競争力を高める強力なリソースとなります。

第四の追い風は、先進的な規制スキームの整備です。再生医療等製品の早期承認制度、先駆け審査指定制度、条件付き早期承認制度、医療機器の改善・改良に関する規制サンドボックス、医療AIソフトウェア(SaMD)の承認スキーム整備など、日本の規制当局は、新しい技術領域に対応する規制スキームを、世界に先駆けて整備してきました。条件付き早期承認は、欧米にも類例がない先進的な制度として知られ、再生医療領域のスタートアップにとっては、開発期間の大幅な短縮を可能にする重要な追い風です。

第五の追い風は、世界市場の構造的拡大です。世界の医薬品市場は1.5兆ドル、医療機器市場は5,000億ドル規模に達しており、いずれも長期にわたる成長基調にあります。高齢化の進展、新興国の医療アクセス改善、希少疾患・難治性疾患への治療ニーズの拡大、デジタルヘルスの普及など、ライフサイエンス領域全体で、外部市場そのものが拡大している状態は、極めて好ましい外部環境です。

これら五つの追い風は、五つの壁と表裏一体の関係にあります。壁を単独で乗り越えるのは難しいが、追い風となるパートナー・制度・市場環境を巧みに組み合わせれば、十分に勝ち筋がある──これが、私たちが現場で感じているリアルな実感です。

 

5. 産学連携マネジメント現場から見えてきた実践的な打ち手

ここからは、私たちキャンパスクリエイトが電気通信大学を母体とする広域TLOとして、ライフサイエンス領域の研究シーズと事業化の橋渡しに関わってきた経験を踏まえて、スケールの壁を越えるために有効と考えられる打ち手を、具体的に整理します。

第一の打ち手は、創業初期からの大手製薬・医療機器企業との戦略的アライアンスです。創業前あるいはシード段階で、想定領域の主要大手企業1〜2社と、共同研究契約あるいはオプション契約を結び、薬事・CMC・治験・市場アクセスの知見を初期から取り込む設計です。「研究室の発想を、規制と臨床に耐える形に翻訳する」フェーズを、外部パートナーとの共同作業として組み込むことで、スタートアップ単独では届かない経験値を、創業期から学んでいくことが可能になります。早期に大手との接点を持つことは、後のライセンス・アウトやM&Aの選択肢を広げることにも繋がります。

第二の打ち手は、CRO・CDMOの戦略的活用です。CRO(Contract Research Organization)は治験オペレーションを、CDMO(Contract Development and Manufacturing Organization)は製造を、それぞれ専門特化して受託します。スタートアップ側は、自前で治験部門・製造部門を持たず、CRO・CDMOとパートナー契約を結ぶことで、薬事規制と製造のリソースを外部から取り込みます。日本国内のCRO・CDMOの層は近年厚みを増しており、再生医療領域や核酸医薬領域などでも、信頼できるパートナーが選択できる環境が整ってきています。

第三の打ち手は、AMED・JST・NEDO等の公的補助金の戦略的活用です。AMEDの創薬ブースターや橋渡し研究プログラム、NEDOの医療機器プログラム、JSTの研究成果展開事業など、ステージ別の補助金を計画的に組み合わせれば、創業初期の数年間を公的資金で十分に支えることが可能です。さらに、これらの公的資金は、後のVC調達のシグナルとしても機能します。

第四の打ち手は、ナショナルセンター・大学病院との臨床研究連携です。国立がん研究センター、国立循環器病研究センター、各国立大学病院のARO(Academic Research Organization)機能を活用すれば、臨床試験の設計・実施・データ管理を、世界水準の臨床研究基盤の上で進めることができます。これは、米国のNIH/AMC連携モデルと類似の枠組みであり、日本にも十分な厚みのあるリソースが存在することを、もっと活用すべき領域です。

第五の打ち手は、海外展開の早期設計です。日本市場のみを想定した開発計画は、患者数の限られた疾患領域では事業として成立しにくいケースが多くあります。創業の早い段階から、米国FDA、欧州EMA、アジア(中国NMPA、韓国MFDS、シンガポールHSA等)の規制対応を視野に入れ、グローバル開発戦略を組み立てることが、上市後の市場規模を大きく左右します。シンガポールを拠点としたアジア展開、米国子会社経由でのFDA対応など、複数のグローバル展開モデルを、開発の早い段階から戦略的に検討する価値があります。

第六の打ち手は、知財ポートフォリオのグローバル設計です。物質特許、用途特許、製法特許、製剤特許、デバイス特許といった多層構造のポートフォリオを、PCT国際出願と各国移行を計画的に組み合わせて構築します。ライフサイエンス領域は、特許の質と範囲が事業価値に直結する領域です。創業期の限られた予算の中で、TLO・知財専門家と並走しながら戦略的判断を積み重ねることが、長期的な競争優位の源泉になります。

第七の打ち手は、医療AI・デジタルヘルス(SaMD)領域の機動的な規制対応です。医療AIソフトウェア(SaMD:Software as a Medical Device)、遠隔診療プラットフォーム、病院DX、診断支援AI、デジタル治療アプリ(DTx)といった領域は、従来の医薬品・医療機器の開発サイクル(10〜15年)と比べて、相対的に短いサイクルで社会実装へ到達しうる領域です。PMDAは近年、プログラム医療機器(SaMD)の承認審査ガイダンスを複数整備し、**IDATEN(医療機器の変更計画の事前確認制度)**のようにソフトウェアの継続的改良を前提にした規制スキームも整備されました。SaMDは、診療報酬上のプログラム医療機器区分(チャプターC等)や、加算評価の対象としても、政策的な位置づけが徐々に明確になりつつあります。

SaMD領域のスタートアップにとって重要なのは、日本国内での早期承認取得と、海外(米国FDAのDe Novo/510(k)、欧州MDR下のCEマーキング、シンガポールHSA等)との並行申請を戦略的に組み合わせることです。医療AIは医薬品と比べ、治験コストや製造コストが相対的に軽い一方で、臨床エビデンス構築、リアルワールドデータとの連携、医療機関の業務フロー組み込み、診療報酬対応、データガバナンスといった独特の論点があります。創業期からナショナルセンター・大学病院・CRO・診療報酬コンサルタント・データガバナンス専門家との協働を設計し、国内外の規制対応を並走させる体制づくりが、スケール加速の鍵になります。日本のリアルワールドデータ基盤(DPCデータ、電子カルテ、PMDAのMID-NET等)は世界でも稀に見る豊富さを持っており、SaMD開発におけるエビデンス構築の優位性を、戦略的に活かすべき論点です。

これらの打ち手は、いずれも単独では効果を発揮しません。案件ごとに、「どの打ち手の組み合わせが最も短時間で承認・上市・グローバル展開に届くか」を見極め、必要なパートナーを段階的に組み込んでいく設計力が、創業期のライフサイエンススタートアップにとって決定的に重要です。特にライフサイエンス領域は、研究者起業家の方が医学・薬学・生命科学のバックグラウンドを持つ一方で、薬事・CMC・治験・市場アクセス・知財ライセンス交渉等の事業化リテラシーは、初期段階では限られているケースが多くあります。研究の言葉と事業の言葉、研究の論理と規制の論理を橋渡しする「翻訳」と「ネットワーキング」のレイヤーが、ライフサイエンス領域における産学連携マネジメントの中核機能であると、私たちは考えています。

 

6. ライフサイエンススタートアップの今後の展望

最後に、日本のライフサイエンススタートアップの今後の展望について、ポジティブな見通しを整理します。

世界的に、ライフサイエンス領域は、AI創薬、再生医療、遺伝子治療、核酸医薬、デジタルヘルス、プレシジョンメディシンといった新しいモダリティの登場により、過去30年で最も大きな構造変化の時代に入っています。従来型の低分子創薬中心のモデルから、多様なモダリティを組み合わせる開発体制へと、グローバル製薬産業全体がシフトしつつあり、スタートアップが革新的なモダリティを持ち込む余地は、過去にないほど広がっています。

日本のライフサイエンススタートアップにとって、この外部環境は極めて追い風です。研究シーズの厚さ、ナショナルセンター・大学病院の臨床基盤、AMEDの公的支援、製薬・医療機器大手のオープンイノベーション意欲、先進的な規制スキーム、世界市場の構造的拡大──これだけのプラス要因が同時に揃う局面は、過去数十年でも珍しいタイミングだと、私たちは捉えています。

スケールの壁は、確かに存在します。しかし、それは「乗り越えるための具体的な打ち手が見えている壁」です。創業初期からの大手連携、CRO・CDMOの活用、AMED等の公的資金活用、ナショナルセンターとの臨床研究連携、グローバル展開の早期設計、戦略的な知財ポートフォリオ──これらを、適切なパートナーと組みながら一つずつクリアしていけば、世界市場で勝負できるライフサイエンススタートアップを、日本から多数輩出できる土壌は十分に整っていると考えています。

 

おわりに:壁の構造を冷静に見据えて

日本のライフサイエンススタートアップが直面するスケールの壁は、決して悲観すべきものではありません。むしろ、その壁の存在は、ライフサイエンス事業の長期的な競争優位の裏返しでもあります。一度承認・上市まで到達した医薬品・医療機器は、特許期間中、長期にわたって安定的な収益を生み、患者さまに継続的な価値を届け続けます。

本稿で見てきた通り、五つの構造的な壁(資金調達期間のミスマッチ・薬事規制・CMC・臨床試験・市場アクセス)と、それと表裏一体の追い風(大手製薬・医療機器企業の集積、AMED等の国家ファンディング、世界水準の臨床研究基盤、先進的な規制スキーム、世界市場の構造的拡大)を冷静に見据え、創業初期からの大手連携、CRO・CDMOの活用、AMED等の公的資金活用、ナショナルセンターとの臨床研究連携、グローバル展開の早期設計、戦略的な知財ポートフォリオ──といった打ち手を、戦略的に組み合わせていけば、世界市場で勝負できる大学発ライフサイエンススタートアップが、日本から多数輩出されていく道筋は、確実に見えていると考えています。

数字や個別の壁の議論に終始するのではなく、研究シーズの厚さ、臨床基盤の充実度、公的支援の重層性、世界市場の構造変化──これら複数の指標を一つのダッシュボードとして読み解き、スタートアップ・大学・ナショナルセンター・大手製薬・公的機関・海外パートナーが、それぞれの強みを持ち寄って一つのエコシステムを作っていくポートフォリオ発想こそが、日本のライフサイエンススタートアップの未来を拓く鍵になるはずです。

産学官連携の現場に身を置く一人として、革新的な医薬品・医療機器・再生医療・診断技術で世界の患者さまの健康課題を解決していこうとする日本の大学発ライフサイエンススタートアップの挑戦が、これから一段と加速していくことを、私たちは確信しています。


【参考資料】