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日本のマテリアルスタートアップのスケールの壁 〜産学連携マネジメントの現場から見える機会と打ち手〜
はじめに
新素材、機能性化学品、ナノマテリアル、半導体関連材料、二次電池材料、グリーンケミストリー──。これらの「マテリアル」領域は、日本の大学が世界的にも極めて高い基礎研究力を持つ分野であり、同時に、日本の産業競争力を長年支えてきた中核産業でもあります。経済産業省「令和6年度大学発ベンチャー実態等調査」によれば、業種別では「ものづくり(素材・化学品・機械等)」が大学発ベンチャーの主要セグメントの一つを占め続けています。文部科学省の産学連携実施状況調査でも、知財収入72.6億円のうちマテリアル(研究試料等)が9.8億円(13.5%)を占めるなど、ライフサイエンス系と並ぶ大学知財の稼ぎ頭です。
それだけ強い研究基盤と産業基盤を持っているにも関わらず、マテリアル領域の大学発スタートアップは、ある段階で必ずと言ってよいほど共通の壁に直面します。ラボの優れた素材を、商用ロットでお客さまに継続供給する事業へとスケールする壁です。
本稿は、私たちキャンパスクリエイトが広域TLO(Technology Licensing Office)として、これまで多くのマテリアル領域の研究シーズの社会実装に伴走してきた経験から、その「スケールの壁」を構造的に整理し、同時に、現場で見えてきたポジティブな突破口を提示するものです。結論を先に述べれば、日本のマテリアルスタートアップは、確かに固有の構造的ハードルを抱えるものの、世界に冠たる素材産業基盤と研究基盤を背景に持つ国は、世界的にも限られているという極めて恵まれた前提のもと、産学連携マネジメントの工夫次第で十分に勝ち筋を描ける領域である、と私たちは考えています。
1. 日本のマテリアル研究と素材産業の強さ
まず、議論の前提となる日本のマテリアル領域のポジショニングを、客観的に押さえておきます。
日本の素材・化学産業は、世界市場で高い存在感を保ち続けています。半導体材料(フォトレジスト、シリコンウエハー、CMPスラリー、封止材)、二次電池材料(正極材、負極材、セパレータ、電解液)、ディスプレイ材料(偏光板、カラーフィルター、ガラス基板)、機能性化学品、炭素繊維、自動車触媒、特殊樹脂──いずれの分野でも、日本企業が世界シェアの上位を占めるカテゴリーが多数存在します。経済産業省や日本化学工業協会の各種統計でも、化学産業の出荷額は国内製造業の約1割を占め、輸出競争力の高い基幹産業として位置づけられています。
大学側の研究力も世界トップクラスです。文部科学省のサイエンスマップや、Clarivate社の高被引用論文ランキングでも、材料科学(Materials Science)と化学(Chemistry)は、日本が世界の中で相対的に強みを持ち続けている分野として繰り返し挙げられています。京都大学、東京大学、東北大学、東京工業大学、大阪大学をはじめ、地方の有力大学・高専においても、マテリアル領域の優れた研究室は全国に点在しており、論文・特許の生産性は世界水準です。
つまり、マテリアル領域の大学発スタートアップは、研究シーズの源流となる大学・公的研究機関の層の厚さと、シーズを最終的に社会実装する素材産業基盤の厚さという、二つの巨大な土台の上に立っています。これは、米国・欧州・韓国・中国・インド・シンガポールといった各国を見渡しても、簡単には真似できない日本固有の強みです。
このポジションを起点に考えれば、マテリアルスタートアップの「スケールの壁」は、乗り越えるべき構造的な課題ではあっても、諦めるべき宿命では決してない、ということが見えてきます。
2. マテリアルスタートアップ特有の事業構造
「壁」を分解する前に、マテリアル領域の事業がどのような構造を持つかを整理します。
マテリアルスタートアップの事業の大半は、B2Bで構成されます。最終消費者ではなく、自社の素材を組み込んで製品をつくる企業(セットメーカー、デバイスメーカー、装置メーカー)が顧客です。SaaSのような単月単価×契約数で売上が組み上がるモデルとは異なり、特定の顧客に対して、特定のグレードの素材を、特定の品質基準で、長期にわたり継続供給することで売上が積み上がります。
このため、事業のユニットエコノミクスには、いくつかの特徴が現れます。第一に、1社あたりの売上規模が大きいこと。第二に、契約獲得までに長い検証期間を要すること。顧客は、新規素材を採用する際、自社の最終製品の品質・コスト・安全性・歩留まりに直接影響するため、サンプル評価、量産試作、信頼性評価、量産ライン投入、フィールド検証という多段階のプロセスを、半年から数年単位で行います。第三に、一度採用されると安定収益化しやすいこと。顧客側にとって素材の切り替えはコスト・リスクが大きく、長期的なロイヤリティ収入や継続購買が見込めます。
事業構造としては、初期は重い投資と長い時間が必要な代わりに、いったん事業が立ち上がれば、安定的・長期的に強い競争優位を発揮できる、という性格を持っています。
3. スケール段階で立ち上がる「四つの壁」
それでは、マテリアルスタートアップが直面する典型的な壁を、四つに整理します。いずれも、私たちが現場で繰り返し相談を受けてきた論点です。
第一の壁:量産化(スケールアップ)の壁
ラボのフラスコでうまくいった合成プロセスを、キログラムスケール、トンスケールへとスケールアップする過程で、収率・純度・粒度分布・結晶形・残留不純物といった物性が、ラボ条件のままでは再現できなくなることが頻繁に起こります。化学反応の伝熱・伝物条件、反応容器の形状・撹拌、固液分離、乾燥、粉砕、成形といった単位操作を、商用条件に最適化するには、プロセス工学の専門人材と、パイロット設備での実証が不可欠です。研究者が起業した直後のスタートアップでは、この知見を社内に保有していないことが珍しくありません。
第二の壁:設備投資の壁
パイロットプラント、商用プラント、品質管理ラボ、評価設備──マテリアル事業には、ソフトウェア型では考えられない規模の設備投資が必要です。化学プロセスの場合、パイロットラインだけでも数億円、商用プラントは数十億円規模に及ぶことも珍しくありません。しかも、これらの設備は事業立ち上げの早い段階で先行投資する必要があります。シリーズA・B段階のスタートアップが、自前で全てを背負うのは、構造的に難しい局面が多くあります。
第三の壁:品質認定(クオリフィケーション)の壁
顧客企業による素材の採用には、サンプル評価から始まり、QA(品質保証)部門による初期評価、信頼性試験、量産試作品の評価、量産ラインへの投入、量産品のフィールド評価という多段階の認定プロセスが必要です。半導体材料や自動車部品の場合、認定プロセスだけで1〜3年を要することも珍しくなく、その間スタートアップ側は売上ゼロのまま投資を続ける必要があります。さらに、認定取得後も、製造ロットごとの品質一貫性、トレーサビリティ、変更管理(製造プロセスの軽微な変更でも顧客への通知と再評価が必要なケースがある)が継続的に要求されます。
第四の壁:購買プロセスとサプライチェーンの壁
大手顧客の購買プロセスは、複数年契約、複数社購買、価格交渉、SCM対応、BCP(事業継続計画)対応など、スタートアップにとって重い要件を伴います。大手顧客は、原則として「単一スタートアップ1社からの単独調達」を嫌い、複数社調達を要件とすることが多くあります。スタートアップ側は、単独で全量供給する力がなくとも、量産パートナーとのアライアンスで複数社調達体制に組み込まれる工夫が必要になります。サプライチェーン全体の中での自社の位置づけを、初期段階から戦略的に設計することが求められます。
これら四つの壁は、いずれも「研究シーズを持っているだけ」では超えられません。事業化のラストワンマイルを支えるエコシステムとの接続が、決定的に重要になります。
4. それでも見える「日本特有の追い風」
ここまで壁を列挙してきましたが、同時に、日本のマテリアルスタートアップには他国にはない構造的な追い風が存在することを、もっと強調すべきだと考えています。
第一の追い風は、素材・化学業界の大手企業の層の厚さです。日本には三菱ケミカル、住友化学、三井化学、旭化成、信越化学、東レ、帝人、日本ゼオン、JSR、AGCといった、世界市場で戦える素材メジャーが数多く存在します。これらの企業の多くは、近年、CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)やオープンイノベーション部門を強化しており、研究開発の早い段階から大学発スタートアップと組む意欲が顕著に高まっています。スタートアップ側にとっては、量産化ノウハウ、品質認定、設備投資、顧客アクセス、海外販路という事業化インフラを、既に世界水準で持っているパートナーが、国内に多数存在することを意味します。
第二の追い風は、国家戦略としての素材産業重視です。経済産業省は半導体材料、二次電池材料、グリーンケミストリー、量子マテリアル、フォトニクス材料といった戦略分野について、GX(グリーン・トランスフォーメーション)推進機構やグリーンイノベーション基金、半導体材料関連の各種支援、サプライチェーン強靱化補助金などを通じて、過去にない規模の支援メニューを展開しています。NEDOやJSTのプログラムも、素材・化学領域のスタートアップに直接届く形で多数整備されており、研究開発から実証、量産化準備まで、公的資金で繋いでいける制度的環境が整いつつあります。
第三の追い風は、世界市場の構造的な追い風です。EV・蓄電池の世界的拡大、半導体の戦略物資化、グリーン水素・脱炭素関連素材の需要拡大、半導体パッケージング材料の高度化、医療デバイス向け素材の需要拡大──いずれも、日本の素材産業が強みを持つ領域で、長期的・構造的な需要が伸び続ける見通しが示されています。マテリアルスタートアップにとって、対象市場そのものが拡大している状態は、極めて好ましい外部環境です。
第四の追い風は、マテリアルズ・インフォマティクス(MI)の本格実装フェーズへの移行です。AI・機械学習を活用して、新素材の探索・最適化を加速する手法は、ここ数年で実証段階を超え、本格的な実装フェーズに入り始めています。代表的な事例として、Preferred Networks社とENEOS社が共同事業化した汎用原子レベルシミュレータ「Matlantis」は、深層学習による高速な物性予測環境をクラウド経由で研究者・企業・スタートアップに提供しており、これまで数週間〜数ヶ月を要していた候補材料のスクリーニングを、桁違いのスピードで進められるようになっています。触媒、電池材料、半導体材料といった分野で、大学・スタートアップの現場で実用運用が進んでいる点は、MIがもはや「将来の話」ではなく「現在進行形で競争力を決める基盤」になっていることを示しています。
加えて、物質・材料研究機構(NIMS)が中核となるマテリアルズ・データ・ビジネス創成コンソーシアム(MDBC)、文部科学省のマテリアル先端リサーチインフラ事業、産総研の材料プロセスプラットフォームといった制度的基盤も充実しつつあり、共用設備と材料データ基盤の双方を活用できる環境が、スタートアップにも着実に開かれつつあります。創業初期から外部のMI基盤を積極活用すれば、限られた人員と予算の中でも、大手化学メーカーに匹敵する探索サイクルを回せる環境が、既に日本国内に揃い始めていると言えます。
第五の追い風は、人材市場の変化です。大手化学メーカー・素材メーカーで長年プロセス開発・量産化・品質保証を担ってきたシニア人材の中に、退職後あるいは現役のままスタートアップへの参画・支援に意欲を示す方が、確実に増えています。研究者起業家の方々が、こうしたシニア人材を顧問・社外取締役・パートタイム参画として早期に取り込めば、量産化・認定対応の経験不足という、最も埋めにくい人材ギャップを、外部から補強することができます。
これら四つの追い風は、四つの壁と表裏一体の関係にあります。壁を単独で乗り越えるのは難しいが、追い風となるパートナー・制度・市場環境を巧みに組み合わせれば、十分に勝ち筋がある──これが、私たちが現場で感じているリアルな実感です。
5. 産学連携マネジメント現場からの実践的な打ち手
私たちキャンパスクリエイトは、広域TLOとして、マテリアル領域の研究シーズと事業化との橋渡しを多数支援してきました。その経験から、スケールの壁を越えるために有効と感じている打ち手を、具体的に整理します。
第一の打ち手は、創業初期からの大手素材メーカーとの戦略的共同研究です。創業前あるいはシード段階で、想定顧客領域の主要素材メーカー1〜2社と、共同研究契約あるいはオプション契約を結び、量産化・品質認定の知見を初期から取り込む設計です。「研究室の発想を、量産化に耐える形に翻訳する」フェーズを、外部パートナーとの共同作業として組み込むことで、スタートアップ単独では絶対に届かない品質水準と量産経験を、創業期から学んでいくことが可能になります。
第二の打ち手は、パイロット設備のシェアリング・アライアンスです。自前でパイロットプラントを構築するのではなく、大学共同利用設備、産総研・NIMS等の公的研究機関の設備、大手化学メーカーのパイロットラインの遊休枠、共同利用型のオープンファブ等を、組み合わせて活用します。これにより、設備投資のキャッシュバーンを大幅に圧縮できます。経済産業省や文部科学省が運営する共用設備プラットフォームも近年充実しており、これらを戦略的に組み合わせる発想が、初期投資負担を大きく軽減します。
第三の打ち手は、認定プロセスの「橋渡し」を担うパートナーの組み込みです。顧客の品質認定プロセスの全工程を、スタートアップ単独で対応するのは現実的ではありません。CDMO(受託製造機関)、品質保証コンサルタント、認定取得経験のある大手OEM、既存サプライヤー、大学TLOといった、認定プロセスに精通したパートナーを早期に巻き込むことで、各段階のクリア時間を大きく短縮できます。
第四の打ち手は、CVC・大学ファンド・公的補助金の戦略的組み合わせです。国内には、大学ファンド、JST・NEDOの研究開発補助、グリーンイノベーション基金、CVC、大手商社のVC、地方銀行系のファンド等、多様な資金源が存在します。これらを「シード→アーリー→ミドル→レイター」のステージごとに最適化して組み合わせれば、海外資金に頼らずとも相当規模の調達が可能です。さらに、シリーズB以降は、シンガポール拠点を介したアジア・グローバル投資家へのアクセスを組み合わせることで、レイターステージの大型調達も視野に入ります。
第五の打ち手は、海外パートナー、特にアジア大手との連携です。日本の素材は、東アジア・東南アジアの製造業(半導体、二次電池、自動車、ディスプレイ等)にとって極めて重要な調達対象です。シンガポール、韓国、台湾、ベトナム、インド等のセットメーカー・デバイスメーカーとの直接対話を、創業初期から組み込むことで、最終市場の声をプロダクト設計に取り込めます。シンガポールを拠点に、ASEANと東アジアを面で押さえる戦略は、マテリアルスタートアップにこそ親和性が高いアプローチです。
第六の打ち手は、知財ポートフォリオの「層」の作り込みです。マテリアル分野は、コア物質特許1件で勝負する世界ではありません。物質特許、製法特許、用途特許、組成特許、製造装置特許、評価方法特許といった多層構造のポートフォリオを計画的に構築することで、後から参入してくる競合に対する参入障壁を高めることができます。創業期の限られた予算の中で、PCT国際出願や各国移行のタイミング、周辺特許の網掛け、共同研究先との共有特許の権利配分といった戦略的判断を、TLO・知財専門家と並走しながら設計することが、長期的な競争優位の源泉になります。
これらの打ち手は、いずれも単独ではなく、組み合わせることで効果を発揮します。案件ごとに、「どの打ち手の組み合わせが最も短時間で量産化・事業化に届くか」を見極め、必要なパートナーを段階的に組み込んでいく設計力が、創業期のマテリアルスタートアップにとって決定的に重要だと考えます。
6. 海外市場開拓と「ガバナンスの早期確立」という現実
マテリアルスタートアップが、国内市場の限界を越えて世界市場で勝負しようとするとき、もう一つ早い段階から強く意識すべきテーマがあります。それが事業ガバナンスの早期確立です。これは、私たちキャンパスクリエイトが電気通信大学を母体とする広域TLOとして、マテリアル領域の大学発スタートアップの海外展開支援に関わる中で、現場で繰り返し感じてきた論点でもあります。
材料系のCVCやディープテック投資家と話をしていてことさら印象的なのは、彼らが日本の大学発マテリアルスタートアップと、海外の同種スタートアップを比較する際、最初に注視するポイントが「ガバナンス体制が早い段階から組み込まれているか」であるという事実です。具体的には、独立した社外取締役の参画、KPI設計と進捗報告の規律、コンプライアンス・ESG対応、CFO機能の整備、知財・契約管理の体制、サプライチェーン上の責任ある調達(Responsible Sourcing)、データ管理など、創業早期から「説明可能で監査可能な経営体制」が組み立てられているかを、極めて精緻に評価します。
材料系CVCは、自社の事業への組み込み・ライセンス導入・買収といった出口を視野に入れているため、対象スタートアップの研究シーズの強さだけでなく、後の統合プロセスに耐えうる経営体制があるか否かを、初期の段階から判断材料にします。同等の技術水準を持つスタートアップを並べて見たときに、ガバナンスの整備度合いの差が、そのまま投資判断の差として現れる──これは、私たちが現場で何度も目の当たりにしてきた現実です。技術的には優れているにもかかわらず投資が集まりにくいケースの背景には、しばしばこの構造的なギャップが存在します。
海外で資金調達を行う場合も、当然、同水準のガバナンスが要求されます。シリーズB以降のラウンドで海外投資家を取り込もうとする場合、Term Sheetの段階から取締役構成、Information Right、Reporting Covenant、Drag-Along/Tag-Along、Anti-Dilution、ESG対応への要件が織り込まれることは珍しくありません。後からこれらを整備しようとすると、追加の交渉コストとカルチャーチェンジコストが発生します。創業初期のうちから、「グローバルラウンドに耐えうる経営体制」を念頭に置いてガバナンスを設計することが、結果として、シードからレイターまで一貫して資金を呼び込める体制への近道になります。
一方で、ガバナンスを早期に整え、世界水準の経営体制を備えたマテリアルスタートアップは、海外のスタートアップ・コンテストでも極めて高い評価を獲得しうるポテンシャルを持っています。シンガポールの「Slingshot」(Enterprise Singapore主催の世界規模ディープテック・ピッチ・コンテスト)をはじめ、各国の大型コンテスト・アクセラレーション・プログラムでは、マテリアル領域のスタートアップが上位に選出される事例が、近年確実に増えています。私たちがシンガポール進出支援に関わってきた経験からも、日本の大学発マテリアルスタートアップが、技術の革新性とガバナンス・事業計画の両面を整えて応募すれば、Slingshotをはじめとするグローバル・コンテストで十分に勝負できる可能性は高いと感じています。
実際、シンガポール、欧州、北米のディープテック・コンテストでは、二次電池材料、フォトニクス材料、グリーンケミストリー、半導体材料、バイオマテリアル等の領域で、日本の大学発スタートアップが上位入賞・受賞している事例も既に存在します。そうしたコンテストでの上位入賞は、現地VC・大手企業・公的機関への直接アクセスの大きな起点となり、海外資金調達と海外パートナー獲得の双方を加速させる効果を持ちます。
つまり、海外市場開拓を目指すマテリアルスタートアップにとって、ガバナンスの早期確立は、海外CVCからの投資獲得、海外コンテストでの評価獲得、海外パートナー獲得という三つの経路を同時に開く前提条件だと位置づけることができます。技術の磨き込みと並行して、経営体制の早期グローバル化を意識的に進めること──これが、マテリアルスタートアップの世界市場での勝負を決定的に左右すると、私たちは考えています。
なお、シンガポールを起点とするアジア・グローバル展開の具体的な論点(制度的優位性、エコシステム、進出時の落とし穴、社会実装スピード等)については、別稿「日本の大学発スタートアップがシンガポールへチャレンジする意義」でも整理しています。マテリアル領域の海外展開を検討されている方には、併せてご参照いただけますと、本稿の議論と地続きに理解いただけるかと思います。
7. マテリアルスタートアップの今後の展望
最後に、日本のマテリアルスタートアップの今後の展望について、ポジティブな見通しを整理します。
世界的に、素材産業はこれまで「地味だが利益率の高い基盤産業」と位置づけられてきましたが、ここ数年で潮目が大きく変わりつつあります。半導体材料、電池材料、グリーンケミストリー、医療材料、量子マテリアル、フォトニクス、ペロブスカイト太陽電池、革新樹脂──いずれも、最終製品(半導体、EV、再エネ、ヘルスケア機器、量子コンピュータ等)の競争力を左右する戦略物資として、世界的な投資が集中する局面に入っています。
日本のマテリアルスタートアップにとって、この外部環境は極めて追い風です。研究シーズの強さ、素材産業基盤の厚さ、政策的後押し、世界需要の拡大、MIによる開発加速──これだけのプラス要因が同時に揃う局面は、過去数十年でも珍しいタイミングだと、私たちは捉えています。
スケールの壁は、確かに存在します。しかし、それは「乗り越えるための具体的な打ち手が見えている壁」です。創業初期からの大手連携、設備シェアリング、認定プロセスの橋渡し、ステージに応じた資金構成、海外展開──これらを、適切なパートナーと組みながら一つずつクリアしていけば、世界市場で勝負できるマテリアルスタートアップを、日本から多数輩出できる土壌は十分に整っていると考えています。
私たちが特に期待しているのは、「日本の素材産業×大学発スタートアップ×グローバル市場」の三位一体モデルの確立です。研究シーズを大学・公的研究機関が生み、量産化と品質認定を大手素材メーカーが共同で担い、グローバル市場へはシンガポール等を拠点とした海外展開で押し出す──このサイクルが回り始めれば、日本のマテリアル産業の競争力そのものが次のステージへと押し上げられていきます。スタートアップは、この大きなエコシステムの起点として、極めて重要な役割を果たすことになります。
おわりに:壁の構造を冷静に見据えて
日本のマテリアルスタートアップが直面するスケールの壁は、決して悲観すべきものではありません。むしろ、その壁の存在は、マテリアル事業の長期的な競争優位の裏返しでもあります。一度量産化と認定を超えた素材は、簡単には他社に置き換えられない、強い参入障壁を持ったストック収益源となります。
本稿で見てきた通り、四つの構造的な壁(量産化・設備投資・品質認定・購買プロセス)と、それと表裏一体の追い風(大手素材産業の厚さ、国家戦略、世界市場拡大、MIの進展、人材市場の変化)を冷静に見据え、創業初期からの大手連携、設備シェアリング、認定プロセスの橋渡し、ステージに応じた資金構成、海外展開、ガバナンスの早期確立、海外コンテストへの挑戦──といった打ち手を、戦略的に組み合わせていけば、世界市場で勝負できる大学発マテリアルスタートアップが、日本から多数輩出されていく道筋は、確実に見えていると考えています。
数字や個別の壁の議論に終始するのではなく、研究シーズの強さ、素材産業基盤の厚さ、グローバル市場の構造変化、経営体制のグローバル化──これら複数の指標を一つのダッシュボードとして読み解き、スタートアップ・大学・大手素材メーカー・公的機関・海外パートナーが、それぞれの強みを持ち寄って一つのエコシステムを作っていくポートフォリオ発想こそが、日本のマテリアルスタートアップの未来を拓く鍵になるはずです。
【参考資料】
- 経済産業省「令和6年度大学発ベンチャー実態等調査の結果(速報)」(2025年6月)
https://www.meti.go.jp/press/2025/06/20250606004/20250606004.html - 文部科学省「令和6年度大学等における産学連携等実施状況について」(令和8年2月12日公表)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/sangaku/1413730_00014.html - 経済産業省「素材産業の現状と課題」「化学産業政策」
https://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/mono/chemistry/index.html - 日本化学工業協会「グラフでみる日本の化学工業」
https://www.nikkakyo.org/ - 国立研究開発法人 物質・材料研究機構(NIMS)
https://www.nims.go.jp/ - 国立研究開発法人 産業技術総合研究所(産総研)
https://www.aist.go.jp/ - 経済産業省 グリーンイノベーション基金事業
https://www.meti.go.jp/policy/energy_environment/global_warming/gifund/index.html - 文部科学省 マテリアル先端リサーチインフラ事業
https://nanonet.mext.go.jp/